次は安永3〜4年(1774〜75)の「甲午春旅」・「乙未の春旅」の時で、次いで36〜37歳の時の天明2・3年(1782・83)の「京都日記j・「京日記」・「天明下向日記」があります。その直後の天明3年10月からの「再京日記」があります。 そして最後の京の旅となった44〜45歳の時の「京都日記」が残されています。5回上京したことになります。滞在は短くて1カ月、長い時は2〜3年程にもなっています。 京では禁裏と公家家敷南の堺町御門から南下し、堺町通りに面した大村彦太郎宅や下宿ともいえる堺町通り竹屋町を下る処、夷川は上る処の東側近江屋半兵衛宅裏の僑居、また高芙蓉宅、公家の岩倉具選宅に寄寓しながら公家・藩士・儒学者・学者などと大学建設、尊号問題などをめぐり交流しています。 |
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高山彦九郎京の交流圏図 |
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禁裏御所 |
御所堺町御門 |
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京都日記 |
中村楼 |
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彦九郎僑居跡 |
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