服喪の実践と人間的魅力
喪は亡くなった人の近親者が一定期間家などにこもり祝い事や交際を避け身を慎むことをいいます。現在では、両親、兄弟などが亡くなると忌引として一定の期間勤めなどを休み喪に服しています。
彦九郎は墓の前に喪屋を建て、3年の喪に服しました。儒葬や神葬は江戸時代では少なく、喪祭は朱子の『家礼』に従い行われました。喪中は喪屋にこもり、墓前で多くの和歌を近親の者たちとともに詠んでいます。
 喪の行為は国内や他国にも評判となり、多くの人々が弔問に訪れ、賽物が1カ月間(天明7年6月)で2貫860文(2貫838文)に達したと日記に記されています。
01彦九郎墓前日記
彦九郎墓前日記
03彦九郎墓前日記
02服喪の様子服喪の様子

日記にみられる孝
 日記の中に「24日、雨降る。顕祖妣を拝す。」などと、しばしば記録されています。
祖母だけではなく顕祖考(祖父)、顕考(父)、顕妣(母)も拝しています。毎日朝、伊賀鎮印の神札などを前に孝を行い、近親者の命日にはより重きをなして敬神長礼の行為を怠らず行っています。
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06伊賀鎮霊礼
伊賀鎮霊礼
07伊賀鎮神額
伊賀鎮神額
霊号の宣旨
 天明3年(1783)に京吉田神社に対し、彦九郎の祖父貞正の神号下付と祖母りんの88歳の寿号を請願しています。
高芙蓉の助力があり、貞正には「伊賀鎮霊神」、りんには「鎮得霊神」の神に奉られた神号名が与えられました。
以後彦九郎は、伊賀鎮印の神札と鎮得年緒守寿号を守袋の中に入れ大切に携帯し、朝夕酒や供物を献じ拝礼しています。
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09義僕八助訪問
義僕八助訪問