旅の終焉とその謎
 京に滞在していた彦九郎は、光格天皇の実父典仁親王への尊号宣下が松平定信の反対にあい保留されていることを知ることになります。
寛政3年(1791)3月28日に文治の兆しとされる「神亀」を先帝の叡覧に入れるとあります。
彦九郎は、緑毛亀の摺物500枚と白木屋より金10両を借用して寛政3年7月19日、あわただしく九州、四国への旅に出ようとします。九州では、翌年正月元旦、熊本城下の藪孤山宅で正月を迎えているところから「筑紫日記」は記されています。
その後、薩摩国へ入国するため、熊本を出発しています。途中米良街道を通り九州を横断しています。再びもどって薩摩街道に出、野間ノ関より薩摩に入り、薩摩藩で接待を受け滞在しています。
薩摩では、開聞岳や坊ノ津を訪れています。この後薩摩を出発し、日向街道を北上し、延岡・竹田を経て、熊本にもどります。しぱらく滞在した後、熊本から日田・竹田・佐伯・日出・中澤・日田・久留米へ到着し4日間滞在の後、筑前太宰府や博多を旅し、再び久留米を訪れ、森嘉膳宅で自刃します。
九州での旅は謎にみちています。
01高山彦九郎終焉の地
高山彦九郎終焉の地(饅頭塚)




02高山彦九郎の墓
国指定史跡 高山彦九郎の墓
(久留米遍照院)
03彦九郎の九州足跡マップ
彦九郎の九州足跡マップ
04水盤 遍照院蔵
水盤 遍照院蔵
05辞世の和歌辞世の和歌
06伝彦九郎所持刀
伝彦九郎所持刀 遍照院蔵
07遺髪 遺髪 高山神社蔵
08森家系図
森家系図(彦九郎自刃の際の鮮血が付着)
森敬之氏蔵
09森嘉膳宅
森嘉膳宅(高山彦九郎屠腹当時の図面)