思想・学問形成
 水戸彰考館総裁杉山忠亮の『高山正之伝』によると、彦九郎は13歳のころ『太平記』を読み後醍醐天皇の南朝が王制をうちたてることができなかったことに強く憤ったと記されています。
彦九郎の学問・教育の道は、祖母りん、祖父貞正をはじめとした家族親族の理解の中で形成されていきます。18歳になると置手紙を残し、京にのぼり学者を志しています。京では漢学者の岡白駒、河野恕斎に学んだと伝えられています。
伊勢崎では、村士玉水、浦野神村らと交友する中で、山崎闇斎の崎門学派に傾倒していきました。江戸では学派にとらわれない多くの学者と交流し嚶鳴館の細井乎洲、蘭学者の前野良沢、曾輔堂の菅野輪斎などと幅の広い交友を深めています。
彦九郎は自ら「儒生」と名乗り、国学を重視して多くの和歌を残すなど、その多才な才能を発揮しています。
01上野国絵図上野国絵図 02伊勢崎藩藩校「学習堂」伊勢崎藩藩校「学習堂」

03彦九郎の読書録    04新藤茂一の墓
彦九郎の読書録   新藤茂一の墓
06今村多加の墓誌今村多加の墓誌 05花見堂花見堂 山県大弐の墓
07山崎闇斎崎門学派系図
山崎闇斎崎門学派系図