村は1人の大名と5人の旗本による分割統治が行われ、高山家は筒井与次右衛門の知行所で名主を務めていました。元文3年(1738)の人別帳には伝左衛門貞正の長男彦八が家長として記載され、家族6人と使用人男女合わせ14人馬3匹という構成になっています。村の中でも大きな農家でした。 後に彦九郎は日記の中で「人傑の出づるは地霊による」と書いています。その土地の歴史・風土から生み出された傑出した人物を敬うことが大事だと考えていました。 |
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高山彦九郎:家系図「蓮沼家系図」をもとに作成 |
国指定史跡 高山彦九郎宅跡 |
国指定史跡 高山彦九郎宅跡内 |
宅跡の井戸跡 |
教王寺 |
教王寺 教王寺は高山家の菩提寺で、真言宗の寺院です。如意山教王寺と呼ばれ、廷徳2年(1490)金山城主横瀬国繁の開基とされます。廷享5年(1748)4月に、隠居分家をする前の祖父伝左衛門貞正は、百字真言鐘を寄進しています。明和3年(1766)には、彦九郎の祖母りんが、剣持家で没した夫伝左衛門貞正を供養するため半鐘を寄進しています。彦九郎が天明6年から服喪をしていた時に、祖父の寄進した鐘の音を聞いて「打ませにつくつく思い入相の鐘は昔にかわらさりけり」と和歌を詠んでいます。 |
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伝高山彦九郎誕生の家 床の間 |
室内 |
全景 |
当時の細谷村 |
妙高寺高山家墓 伝高山遠江守墓 冠稲荷神社 |