直実公と熊谷寺
 熊谷直実公(後に出家したので蓮生法師という)の父は高力直貞と言い、武芸にすぐれた人であった。
 当時、現在の熊谷市地方は、広々とした原野で、民家もまはらである上に、大きな熊がうろついて、人畜に害を与えるという土地であった。それで熊の住む谷・・・熊谷という地名が生した。熊の被害に困った人々は、この熊を退治した者に、三首町歩の領地を与えることを定め、これを近在の人々に触れた。
 高力直貞はこれを知り、誰も恐れて近づかない大熊の住む洞穴を深夜に襲って退治した。以後、地名の熊谷を姓とし、この地方一円の領主として信望を集めるに至った。
 直貞の館は、今の熊谷寺の本堂のあるあたりにあった。この館の由来は、裁判所の北に高さ二米余の石碑に刻まれているので詳しく知ることができる。
 直貞には三人の男子があったが、末子の直実は幼名弓矢丸と言い、父に似て、名の通り弓矢の道に長じていた。
 源頼朝が平氏に対して挙兵すると、関東一円の武士は頼朝の軍に馳せ参したが、直実もこれに加わって、数々の武功をあらわした。かくて頼朝から「日本一の剛の者」と絶讃された。一の谷の戦で平敦盛を討ち取った若悩に加えて、領地問題その他の事件に苦しみ、俗世を厭う心が生し、当時、京都の知恩院を開いた法然上人の弟子となって仏門に入った。法名を蓮生という。
 以後仏道に精進し「坂東の阿弥陀仏」と称され るほどになった。晩年は、かっての館の跡にささ やかな庵を建てて蓮生庵と名づけここで入寂した。
 その後300年、徳川家康が庵の跡に大伽藍を建て 「蓮生山熊谷寺」と命名した。これが熊谷寺の起 りである。
 熊谷寺の本堂は再度火災に遭い、現在 の本堂は、大正4年竣工したもので、関東では、 有数の木造建築物(総欅材)である。その縁の下 には「戒壇巡り」の施設のあることで知られている。
 蓮生法師(直実公)の墓は本堂西側の老樹の 下にあり、その遺品40数点は宝物陳列館にあっ て、常に見ることができる。

  解説者 熊谷寺住職三十三世漆間景和
熊谷寺
熊谷寺
直実公
直実公
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