MENUMA
人 物 往 来
ふるさと妻沼の風土が育んだ忘れ得ぬ人々。
そして、この地を愛した人々。
いま、その軌道を見つめてみたい。

 ・・・日本初の女医となった・・・荻野吟子

荻野吟子
荻野吟子
荻野吟子史跡公園
荻野吟子史跡公園−俵瀬−
 渡辺淳一の小説「花埋み」で紹介されるまで、知られることのなかった日本女医第一号 荻野吟子。その生涯は、波乱の一生であったといわれます。
 嘉永4年(1851)俵瀬村(現在、妻沼町)の名主荻野綾三郎の5女として生れました。 彼女の育った時代は幕末の動乱期で、10歳のとき、江戸城桜田門外で大老井伊直弼が 暗殺されるなど大きな時代のうねりの真っ只中、成長してきたのです。
 小さいころから勉学に意欲的で、「行余書院」や寺門静軒の「両宜塾」で学問の基礎を 学びました。
 18歳のとき「玉の輿」といわれた熊谷の名主のもとへ嫁ぎましたが、病気のため 2年後には離婚。
 「女性の医者に診てもらえるなら、これまでのような恥ずかしい思いをしなくても 済む・・・」と彼女にいわせた男性医師による診療の屈辱が、女医志望の決意を 促せたのです。
荻野吟子生誕之地記念公園
荻野吟子生誕之地記念公園
 当時、女性が医者になることは不可能なことで、いずれの医学校も女人禁制、医学を 学ぶことすら許されなかった時代です。
 女医志望を決意した彼女は、東京女子師範学校(現在のお茶水女子大)を卒業。 明治12年、私立の医学校に入学。しかし、それからの道のりは険しく、女医への道のりは 遠いものでした。彼女はくじけることなく、女医の道を開くため、あらゆる手段をもって、 法の改正を働きかけたのです。
 彼女の熱い思いが、通じたのか、明治17年、医術開業試験規則が改正されました。 翌年、見事に試験に合格し、日本の公許女医第一号となったのです。
 その後の彼女は、東京及び北海道に創院して医療に当たると共に、女性解放の先覚として 活動し、大正2年、栄光と苦難の生涯を閉じました。