MENUMA
人 物 往 来
ふるさと妻沼の風土が育んだ忘れ得ぬ人々。
そして、この地を愛した人々。
いま、その軌道を見つめてみたい。

 ・・・子弟の教育に情熱を注いだ・・・寺門静軒

 寺門静軒(寺門弥五左衛門)は、寛政8年(1791)水戸藩士の子として江戸で生まれ、 20歳の頃に学問の道へ入ったといわれています。
 上野寛永寺の勧学寮で、儒学と仏典を学んだ静軒は、父の仕官先であった水戸藩の仕官に 失敗し、天保2年(1831)生活の糧を得るために書いた「江戸繁盛記」が大人気となり、 静軒の名を高めました。
寺門静軒
寺門静軒
両宜塾記
両宜塾記
 この作品は、江戸市中の繁栄ぶりを記すとともに、退廃した江戸文化をとらえて 為政者の無能を風刺したもので、当時のベストセラーとなりましたが、 「風俗を乱すもの」として幕府から取締まりを受け、武士に適用される 「武家奉公御構」の刑に処せられました。
 この処分によって江戸を追われた静軒は各地を転々としていましたが、安政7年 (1859)妻沼に滞在することになったのを機に、郷学の師匠として迎えられたのです。
 その時、静軒は「私はその器ではなく、いまだ終極を知らない。が、ここで死ぬ ことになろうとも、背負った包を卸し、初代の師匠として名を残そう。」と、承諾し、 「この家を得て宜しく老い、学ぶものは私を得て宜しく学ぶべし」と言うことで 「両宜塾」と命名。現在、塾跡には、記念碑が建立されています。
 両宜塾が開かれると学問好きの人々が多く入門し、有能な人材が育っていきました。 その中には、日本で初めての公許女医荻野吟子もおり、彼女の才能も両宜塾で開眼され、 好学心を培っていったのです。